第41回


ゲストは、朝日健太郎さん。
1975年熊本県生まれ。
男子バレーボール日本代表選手として活躍後、
ビーチバレーに転向。
北京オリンピックでは
日本人として初めてトーナメントに進出、
ロンドンオリンピックに出場し、
2012年に現役を引退。
現在、日本ビーチ文化振興協会理事長。


朝日さんは、バレーボールの名門・鎮西高等学校(熊本)に進学。
春の高校バレーとインターハイの準優勝を経験されなど大活躍され、
西のトラ!西日本のタイガーって言われていたそうです。

法政大学卒業後はサントリーに入社、Vリーグ時代に新人賞、ブロック賞を数回獲得、
全日本代表にも選出され一気に注目を浴びるようになります。

しかし・・
朝日「20代前半がエネルギッシュだったかもしれない。バレーもそうだし、
   いろんな人とあったり、いろんな場所へいったり、
   22歳~26歳まで一年中、国内、国際大会の公式戦をやっている感じでした。
   しゃにむに突っ走っていた結果で賞とか頂いていたし、
   人気も出たりしたんですけど、今思えば突っ走りすぎていて、
   結果的にビーチバレーをというものを考える、
   数年後には足が止まる理由だったかな。
   自分をリセットしたい、一度立ち止まりたいという思いが強く、
   忙しいバレーボール生活から抜け出したい気持ちも正直ありましたよ。」
杏子「辞めてから、解説者になるとか考えたりしなかったの」
朝日「小さい頃の気持ちと変わらないんですけど、
   嫌なものをやーめたというのはちょっと・・。しがみつくタイプ。
   何か形を変えてしがみつきたい。もう一回頑張れないかと、
   たまたまビーチバレーを知ってこれはいいぞと。」

当時はビーチバレーボールの認知度は低く、ビーチボールと勘違いする人もいた時代。
それが返って朝日さんを奮起させ賭けてみようという思いにさせたそうです。

そして、2002年にビーチバレーに転向した朝日さん。待ち受けていたのは・・
「とある海岸での公式戦で開口一番に運営者にどこで試合するんですかって聞いた。
 だって普通に電車降りて会場まで行くとノボリが2、3本立っていて、
 コートのまわりに折りたたみのイスが10個、テントが1個、
 ハイ、スタートですって、いやいや、公式戦をやりに来たんですけど、
 どこで着替えるんですかと、ホントびっくりしちゃった。」


ビーチバレーボールの認知度を高めたい、その思いが一段と強くなったそうです。


M1. DISTANCIA~この胸の約束~<20 Years After Ver.> / 杏子
M2. Ong Ong / Blur
M3. Modern Love / David Bowie