今週は、プロフィギュアースケーターの鈴木明子さんにお話を伺いました。
◆宮城県の大学へ進学したときの事について教えてください。
宮城の大学へ入学したとき、自分はうまくならなければいけないと思いました。
今、思えば当時の自分はとても弱くて、オリンピックに行きたいと思ってはいても、勝手にプレッシャーを自分にかけていて、結果的に摂食障害という病気になってしまいました。
あの時に、自分がオリンピックに行きたいから頑張るんだという思いと誰かに相談することができていればまた変わっていたと思います。
でも、何もできなかった自分がいました。そこが自分の弱さだったと感じています。
◆大学1年で摂食障害になり、その後競技生活を休まれていましたが、オリンピックをまた意識し始めたのはいつ頃ですか?
摂食障害になり、オリンピックは自分の中ではもうないなと思っていました。でも、荒川さんの活躍を見て、自分の中でまた頑張ろうという気持ちになったんです。
そして、大学4年の時にユニバーシアードで優勝をすることができて、その頃から意識が変わりました。
就職活動もしていなくて、進路をどうしようか悩んでいた時だったのですが、この優勝が自分をスケートの道へとまた導いてくれました。
本当にスケートが楽しいと思える時期でした。
当時のコーチと相談して、名古屋のスポーツランドで契約社員として入社する事になりました。
そして、社会人選手として練習もさせてもらいオリンピックを目指すことができました。
◆社会人になってからどうでしたか?
大学があった仙台から愛知に戻り、バンクーバーオリンピックにもしかしたら間に合うかもと感じたのが開催1年前の時でした。
1年後に自分はこのチャンスをつかめる可能性があるかもしれないと思ったんです。
コーチ、スタッフ、会社の人たちが一緒に目標へ向かって走ってくれていました。
ただ、オリンピックが見えてはきたけど、3枠しかない代表を争うので、みんなの中で自分が絶対いけるとは思っていなかったかもしません。可能性にはかけてくれていたと思います。
でも、なんとかバンクーバーへの切符を手にすることができました。
◆ソチオリンピックでは、28歳(当時の最高齢)で出場されましたが、いかがでしたか?
プレッシャーのかかりかたは、ソチとバンクーバーではまったく違いました。バンクーバーの時は、代表になれるかわからないけど、勝ち取ろうと必死でした!
そして、ソチの時は周りがきっと自分は代表になれるという雰囲気の中にいたので、本当に苦しかったです。
ソチオリンピックは、自分にとって絶対に人生で最後の大きな舞台になると思っていたのでスケート人生の競技としての集大成なんだと思えば思うほど苦しかったです。
23年間のスケート人生の中で一番苦しかった1年でした。
◆23年間のスケート人生を振り返っていかがですか?
オリンピックって運ってあると思うんです。
頑張っても頑張ってもいけない方もいると思います。
私の場合は、あきらめずにやってきたご褒美だったのかなと思いました。
最後に見えたスケート人生の景色は表彰台の一番高い場所ではなく、最後に出場した世界選手権はメダルもありませんでしたが、最後に思ったことは、ここまでやってこれて良かった!でした。
その景色は表彰台の上ではなく、遥かその上を超えたところにありました。
今、頑張っているアスリートの皆さんたちには、メダルよりもその先の景色が、素晴らしいことを感じてもらいたいです。