100年以上にわたって、戦(いくさ)の絶えない状態がつづいた戦国時代。
この時代は「下剋上(げこくじょう)」といって、身分の低い者(下)が、身分の高い者(上)に「打ち剋(か)って」、家来が主君を超える現象が、日本中でおこっていました。
上の者が、下の者をおさえることができないわけですから、各地の勢力がお互いに争い合って、収拾がつかない状態になっていたわけです。
やがて、時代の風雲児として、あまりに有名な織田信長(おだ・のぶなが)があらわれます。
信長もやはり、もとは現在の愛知県西部にあたる尾張国(おわりのくに)の、一勢力にすぎませんでした。その状態から勢力を拡大し、京へのぼって、下剋上をして、日本全国を統一一歩手前まで迫ったのです。
しかし、この信長も、天下統一目前で、部下の明智光秀(あけち・みつひで)に謀叛をおこされて、京都の本能寺にいたところを光秀の軍勢に攻められ、亡くなることとなりました。
これがいわゆる、「本能寺の変」です。
光秀はこの事件により、日本史上もっとも有名な謀叛者の一人として、名を残すことになりましたが、実はこの「本能寺の変」の前にも、信長に謀叛をおこした人物は、複数名いたのです。
そうした叛逆者のなかで、光秀に次いでよく知られているのが、荒木村重(あらき・むらしげ)と、松永久秀(まつなが・ひさひで)です。
光秀、村重、久秀の三人は、上の者に逆らったことで、いわば〝悪人〟のイメージがついてしまっています。信長があまりに有名であるだけに、それに比例して(あるいは、反比例といったほうがいいいかも)、彼らの悪評も広まってしまったともいえるでしょう。
けれども、彼ら三人の実像をつぶさに追っていくと、実は「悪人」とも言えなかった。時代と社会の情勢、当時の状況のなかで、懸命に選択をした結果、やむを得ず謀叛をこおこしたのではないか、と私は思っています。
そこで、彼らが活動した歴史上の舞台を実際にたずね、その人生を肌で感じ、改めてその事績を検証すべく、旅をしてきました。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
旅日記はこちらから
旅の動画はこちらから