歌舞伎町伝説の支配人

2020年5月4日Slow News Report


速水:SLOW NEWS REPOT 今日は写真家の後藤勝さんにお話を伺います。後藤さんは、普段は内戦であるとか、児童売買、エイズなど社会問題を追う写真家ということなんですが、今回レポートをしていただく内容はちょっと違いまして、新宿の「歌舞伎町伝説の支配人」ということなんです。この伝説の支配人とはどなたのことなんでしょうか?

後藤:名前が吉田康博さんという方で、新宿歌舞伎町にあったキャバレー「ロータリー」の支配人だった方なんです。取材当時はもう82歳で、昭和33年から歌舞伎町で働き続けて、キャバレー一筋62年間とういう方です。

速水:昭和33年、つまり1958年というと、「三丁目の夕日」の世界で、東京タワーが建設中であったりしたわけですが、高度成長時代の歌舞伎町を知っている、伝説の存在というわけですね。ロータリーというお店の話をされましたが最近閉店して話題になったお店ですよね?

後藤:そうです。ちょうど2月末に閉店しました。歌舞伎町の最後のキャバレーといわれていました。場所は、区役所通りの交差点の角に風林会館という大きなビルがありますが、その6階にありました。


戦争で失った青春を取り戻す街 歌舞伎町

速水:そこの伝説の支配人が吉田さんということなんですが、後藤さんが吉田さんの取材をするきっかけは何だったのでしょうか?

後藤:写真家の梁丞佑(ヤン・スンウー)さんという方がいまして、ヤンさんとよく話すのですが、「歌舞伎町にこういう面白い人がいる」という話になって、その店がもう閉店してしまうということで、それならということで、ヤンさんと二人で取材を始めたわけです。吉田さんは福岡から上京して東京の大学に入るんですけれども、昭和30年代の大学当時、歌舞伎町のキャバレーでアルバイトを始めました。その頃の歌舞伎町は人で溢れていました。戦争が終わって、戦地から戻った人が復興のために一生懸命働いて、ようやく余裕ができたちょうどその頃。青春を戦争で過ごした人が、青春を取り戻そうとして歌舞伎町にやってきた、そういう時代だったんですね。
吉田さんの言葉で印象的だったのは、「キャバレーは必然としてできた」ということです。大箱といいますが、一回で何百人も遊べて、音楽やダンスがあったりといったところは、その時代とともに生まれた場所と言っていました。

速水:いわゆるグランドキャバレーですよね。大きいスペースがあって、そこにダンサー達が大勢で踊ったりする。そういう場所で吉田さんは働き始め、のし上がっていくわけですか?

後藤:そうですね。その頃の歌舞伎町というのはいろんな人がいて、いろんなことがあって、もちろん危険な事もあったそうです。あの頃は裏の世界の方もたくさんいて、そういう方ともうまく付き合って商売をして生き抜いてきたと吉田さんは言っていました。例えば、いざこざになって相手に刀を振り回されて、階段から転げ落ちたとか、道を歩いていたら、何人かに拉致されてどこかに連れて行かれたとかあったそうです。歌舞伎町ではそんなことがおきるんですね。いちばん印象に残っているのは、吉田さんのお店の女の子を引き抜いたライバル店がオープンする時、その女の子を乗せた車の前に何人かで寝転がって車が行くのを阻止して乱闘になったこともあったそうです。そういうことがまかり通っていた時代と言っていました。吉田さん自身は堅気の人ですが、そういう裏の世界の人とも渡り合ってのし上がっていくんですけれども、まだ聞いていないようなエピソードもたくさんあったと思いますね。


ホステスたちの父親的な存在として

速水:吉田さんはホステスたちの個人的な悩みを聞いたりする父親的な存在だったという話もあると伺ったんですが。

後藤:もちろんです。吉田さんはよくホステスさんたちに「一番大事なのはお金だ」ということを厳しく言っていたそうです。やはりそれはやっぱりそういう世界でずっと生き抜いてきた人だからこそわかる話なのでしょうね。そんな話を聞いたホステスさんたちは、また仕事を頑張って、家族のために一生懸命働くという感じになると言っていました。吉田さんはいつもにすごくニコニコしていてすごく気を使われる方なんですけれども、僕は世界中色んな所に取材に行きましたが、本当にすごい人というのは、内に秘めたるものがあって、ニコニコしている場合が多いんですよね。

速水:逆に普段ニコニコしているからこそ強い人なんだろなと感じさせられますね。後藤さんと一緒に取材をしたヤン・スンウーさんにもお話を伺っています。

「ずっと歌舞伎町を撮っていたのですが、5~6年前から歌舞伎町が変わり始めていて、なにか面白くないなと感じていました。ある日、ぶらぶらしていたら風林会館の1階の入り口で案内してくれる高橋さんという人がいて、吉田会長を紹介しますから彼を撮ってくださいと言われてエレベーターにのりました。6Fで降りて事務所に行って話したんですが、その事務所の壁が印象的で、今まで店で働いていた女の子達の写真が何百枚も貼ってありました。フィリピン人もいるし、ロシア人もいるし、日本人もいる。いろいろ説明してくれましたね。この子はここで稼いでフィリピンにビルを建てたんだよとか、そういう話をよくしてくれました。なかには年配の方もいて、びっくりしたのは72歳の女の人が売上ナンバーワンだということなんですね。彼はロータリーのオーナーになってから、まだ一人もクビにしたことはないそうです。自分のお店で働く人は最後まで面倒見るというスタンスでやってきたから、店の女の子達との信頼関係はすごく深いんですよね。当時は吉田さんが動くと一晩で女の子30人くらいは動いているという噂がありました。そういう面も含めて伝説の支配人になったんじゃないでしょうか。」

速水:写真家のヤン・スンウーさんのコメントでしたが、ヤンさんはどんな方なんでしょうか?

後藤:ヤンさんは韓国出身で、ずっと長く日本に住んでいます。ずっと歌舞伎町を撮っている写真家ですね。ヤンさんはずっと昔の歌舞伎町、本当にごちゃごちゃしていた頃を知っているので、そういう意味でだんだんクリーンになってきた歌舞伎町は面白くなくなったといっているんでしょうね。

速水:先程のヤンさんのコメントの中にもありましたが、フィリピン人、ロシア人、いろんな外国人の女性がたくさん来ていたそうですが、そんな人達への気遣いもあったそうですね。

後藤:以前、事務所で吉田さんと話している時にマネージャーが来て、「フィリピン人のホステスの家族が来ているんですけれども」という話をしたら吉田さんは「ちゃんと接待して、お金取らないでね」と言っていたんですよね。フィリピンの家族の方は、娘が歌舞伎町で働いているというのは心配なわけですよね。それで吉田さんは家族が日本に来た時には、お店を見てくれという風に招待するらしいんですよ。キャバレーっていうお店は安全で、こういうサービスをして、歌って踊って楽しいお店で、何も危ないことはないというふうに見せたいと言っていました。

速水:メッセージなんかも来ていますが「歌舞伎町の今はお客もなく明るい夜じゃないんだろうな。消えた灯はまたつくのか、学生時代から遊んでいた人間として今の状況は残念」というメッセージもいただいていますが、今の歌舞伎町はかつての時代とは違う状況になっていますが、ロータリーが2月末に閉店してしまったということものコロナの状況と関係あるんでしょうか?


時代の流れ

後藤:いやそれがですね、実は全く関係ないんです。吉田さんが言っていたのは、歌舞伎町は以前は男が遊ぶ街だったんだけれども、ホストクラブが周りにたくさんできて、もう今は女の子が女性が遊ぶ街になってしまった。それはやはり時代が変わって、人の考え方も変わって、人の遊び方も変わったからこれはもう受け止めなければいけない。だから私はきっぱりとやめるという決断をしたと言っていましたね。

速水:ちなみに後藤さんは閉店当日も取材されたということですが、どんな様子でしたか?

後藤:最後のほうは、常連さんだったり、地元の人だったりで連日満席でした。最後は、みんなが吉田さんをステージにあげたんですよね。そして、本当にお疲れ様ということで、花束とか贈り物をステージの上で吉田さんに渡していたのが印象的でしたね。閉店した後も何度か電話で話したりしたのですが、やっぱり自分は歌舞伎町のためにしたい。例えば小さな事務所を構えて、パトロールだったりゴミ拾いだったりしたいと。「私は歌舞伎町の隅々まで知っていて、いろんな人も知っているから、何か人の役に立てるんじゃないかなと思ってる」と言っていたんですね。

速水:ロータリーがあった場所って今はどうなっているんですか?

後藤:その場所は次にホストクラブ愛というところが入ることが決まっていまして、たぶん改装しているところだと思います。

速水:今回、吉田さんという方を取材してみてどう感じましたか?

後藤:吉田さんも口癖のように言っていたのは、「あの時代だったからまかり通ったんだよね」というのが何度もあるんですよね。つまり歴史が吉田さんを作ったというか、時代が吉田さんを作ったような感じなんですよね。なので戦後からの動乱の時期を経て、吉田さんという人が成り立ったので、今後、同じような人が生まれるとかというと、もう本当に出てこないというふうに感じますよね。


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